公益財団法人 田附興風会 医学研究所 北野病院

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座談会

座談会
(平成16(2004)年4月 北野病院特別応接室にて)

(財)田附興風会医学研究所の新旧の所長代理、副所長が集い研究所の歴史や業績を振り返ると共に、今後の展望について意見を交わしました。

この度、(財)田附興風会医学研究所の組織が改変され、副所長として  腎臓内科部長  武曾惠理  が就任いたしました。
新しく治験管理センター(治験管理部門)も研究部門に加わり一層の充実を図って参る所存です。

新しい体制となった(財)田附興風会医学研究所の“これから”をご期待ください。

==座談会 出席者==

山岡 義生
(財)田附興風会医学研究所 前所長代理 兼 北野病院 前病院長

髙月 清
(財)田附興風会医学研究所 北野病院 理事

高林 有道
(財)田附興風会医学研究所 前副所長  兼 北野病院 前副院長

武曾 惠理
(財)田附興風会医学研究所 & 副所長 兼 北野病院 腎臓内科部長

座談会のpdfファイルはこちらから

(財)田附興風会医学研究所の歴史と業績

武曾 本日はどうもお忙しいところお集まりいただきまして、有難うございました。今日は今回新しい体制となったこの北野病院田附興風会医学研究所の研究所としての展望ということが議題ですが、その前にこの研究所がどのような発展をしてきたかという、今までの経緯を今一度確認をしたいと思います。それをお願いするとしたら、研究所に古くから係わって来られている前副研究所長の高林先生からまずお願いしたいと思います。
高林 僕の知っている範囲でお話しますと、ここは田附政次郎さんが、大正14年に50万円をご寄付されてできた研究所です。当時、大阪市も同じように田附さんから50万円の寄付を受けていて、大阪市としても田附さんが作る事業に対して応援をしたい、ということで昭和3年に、附置の病院を作り、初代理事長が今村新吉先生、病院長が松本信一先生という京都大学の二人の名誉教授が就任され、研究所附置病院としてスタートし、当時の大阪市長、関一氏が北野病院と名づけられ、それが大阪市と北野病院の接点となった、という事の様です。
昭和3年当初は120床の病院としてスタートし、戦後、昭和25年に再開しました。昭和37年に510床、昭和40年に580床の病院として大阪市にしっかりと根を張っていった訳ですが、その当時の病院長が荒木千里先生(元京都大学名誉教授・故人)です。

昭和3年2月29日
創業当時  ベッド数120床

開院40周年記念として発行された冊子がありますが、『研究所としては臨床に直結した研究を創意工夫して行うということが、この研究所を持った病院の使命である。やはり国公立の大学とは対峙できないのでできるだけ創意工夫して各科毎に独自の知恵を出し合い、それをまとめて病院としての方向性として一つのものを明らかにすると考えなくてはならないのではないか』とお話になっています。『目標として、学会で評価される、医学会で尊敬される病院研究所として将来をがんばるべきである』ということであったと聞いています。昭和の始め、戦後の混乱期は大変なことがいっぱいあったと思いますが、学会への症例報告というのが研究の主流という時代でしたが、これに対して新しい治療方法を開発するあるいは試みる、という事で学会に発表していくことで、研究所と病院が一体化した組織として歴史を築いていく、という事だったようです。

武曾 あくまで研究所というのが最初にできたわけですね。
高林 そのようです。
武曾 それが重要なことだと思うのですが。
高林 “京都大学医学部における学術研究の利便を図り医学の発達に貢献するのを目的とする”そして、研究用の病院をその後付設設立する、ということが寄付行為の原点ですから、研究所が出来てそれから医学研究病院としての北野病院ということだと思いますね。
武曾 大正14年、50万円というのは当時としては凄いお金ですよね。学会に向けた臨床医学研究所ということですけれども、実態はどうだったんでしょうね、昭和25年以降ですけれども。

昭和25年11月16日
再開当時  ベッド数188床

高林 そうですね、昭和25年以降といっても、まだ戦後でしたので、活動し出したのは、荒木先生の訓示がありました40周年以降ですかね。
僕自身が、ここに始めて顔を出しましたのが昭和47年でしたが、当研究所での研究から京都大学でTietel(博士号)をとるという事がありましたので、大学で認められるようなレベルの研究をされていたと思いますね。当時空き地に羊が飼われていて、抗体を作ったりというような試みはされていたようですから。
髙月 全くその通りですね。私は平成8年からこの病院に居る訳ですが、その前にも京都大学在籍中の時からこの病院はよく知っていてよくカンファレンスの応援などで来ていましてね、研究的出入り口はありましたね。

《髙月 清(たかつき きよし)》
京都大学医学部卒
熊本大学医学部教授を経て
平成3年4月〜7年3月
熊本大学医学部附属病院病院長
平成8年4月〜15年3月
(財)田附興風会医学研究所北野病院病院長
現在は理事を務める
武曾 つまり医者としてここで働きつつ研究していたDrがいた、ということですね。
髙月 そうです。他の科の事情は知りませんが、各科でそういう事はあったんじゃないかと思いますね。戦後は、いろいろな国立センター等が出来たりしましたが、研究っていうのは、大学中心にずっと行われてきましたから、それは貴重なことでした。
高林 聞いた話ですけど、大学で活躍された先生方も一回はここで臨床をやっておられます。例えば先の外科学教室の小沢教授注1)なんかもここに1年位通われたということを聞いた事があります。いろいろな先生方が一回はここで臨床を経られて、“臨床と研究”という雰囲気を若い時に肌で感じられたことはその後大学での活躍の原点となっているかもしれません。
髙月 全員ではないものの、多くが臨床をしながら研究していた、研究所の専属医師という方もおられたみたいですね。
山岡 外科でもそうですね。
武曾 それはもちろん、外科で手術もしながらということですね。その中で北野病院として誇るべき研究成果として、どういう系統の学問・研究というのがあったのでしょうか?
高林 今の研究という概念とその当時の研究というのは少しニュアンスが違う面があると思います。僕がここへ伺った時は、婦人科の下村先生(下村虎男・元北野病院副院長)を中心とした先生方の、また脳外科では菊池晴彦先生や古瀬清次先生・榊寿右先生などのご活躍が光っていました。内科は木島先生(木島滋二・元北野病院副院長)という先生が非常に厳しい指導をしておられましたね。他に宮坂昌之阪大教授(専門分野:細胞分子認識)、栗林景容三重大教授(専門分野:免疫学・細胞生物学)、中尾京大教授注2)などもおられましたが、外科系のご活躍というのも割とよく聞きましたね。
山岡 木島先生のおかげで、神経内科というのがしっかりしたんですね。
髙月 そうですね、神経内科が独立しましたね。脳外科も強いし神経内科もしっかりした。
高林 そうです、神経センターですね(※神経内科は昭和43年に独立)。
髙月 神経の病気については非常に症例が多かったですね。それから非常にお産が多かったんですよ。小児科の鳥居昭三先生と産婦人科の井上欣也先生が多くの先天性奇形の症例を集めて分類整理し解説を加えて京都大学解剖学の星野一生先生と3人の共著で『カラーアトラス新生児にみられる外表奇形―発生の基礎と臨床の手引きー』(医歯薬出版1996年)を出版されました。33,000円の本です。
武曾 そうしますと、臨床の症例をきちっととって報告する、あるいはデータをとってまとめる、そういう形の研究という云わば“臨床研究”ですね。大きな源になったのは。特に神経系と婦人科・小児科系。
高林 分野として新しい学問領域での活躍が目立ちました。新しい分野なのでグッとのびた。
武曾 昭和40年代から50年代ですね、それぐらいからいわゆるラボにおける研究というのもできるようにするべきだと、なっていったんですか。それはもうちょっと後の事ですか?
高林 個人的な話ですが、ここへ再赴任をしたのが1981年(昭和56年)の秋ですが、留学した後なので基礎的なことをやりたいという思いがありまして、リンパ球を分離して炎症組織を見つけるという様な研究をすることは可能だったんです。

《高林 有道(たかばやし ありみち)》
京都大学医学部卒
昭和54年9月米国ペンシルベニア大学医学部研究員
昭和56年(財)田附興風会医学研究所所員 兼北野病院外科副部長
現在 北野病院副院長、京都大学大学院医学研究科先端・国際医学講座消化器外科学教授、京都大学大学院臨床教授
武曾 それはどういう場所でやる事になってたんですか?
高林 あの古い病院の地下に昔から研究する部屋が3つほどあったんですよ。
武曾 しかし、全ての先生がしていたという訳じゃないですよね。
高林 確かにその頃は内科の中尾君や熊谷君、宮坂君など一部の先生がやっていました。
武曾 患者さんを診ながらですか?
高林 ええ。
髙月 大熊稔君(元京大教授)注3)もここにいましたね。
高林 ええ大熊先生もここで血小板をとっては、いろいろ研究なさっておられましたね。
髙月 電子顕微鏡も早くから備えて、神経関係の人は研究を重ねていましたね。
武曾 ここの電子顕微鏡は非常にハイレベルですね。歴史的に見てもやはり臨床の患者さんの病態把握をしっかり行いこれをさらに深めて研究するという研究所というスタンスがずっとつながっていますね。それは一部の検体をラボに持ち込んだとしても、そういうスタンスは保っていく、という事ですね。
高林 そうですね、ただ研究のactivityに波があって、世代交代期には人事の交流が停滞した時期がありました。それは大学が非常に大きくなっていった時で、若い先生方は交流するんですが、中堅とかトップクラスの交流があまり無く、新しい学問が大学や他の研究所で展開され始めた時期に、人の交流が少なかったために、研究所としてのポテンシャルが落ちたかという感じもありました。
武曾 それはいつ頃ですか?
高林 80年代ですね。70年代までは臨床を中心として“N”の数で分析するという事で、あるいは外科的にも新しい手術を作り出すとかで、対応できた時代でした。例えば菊池晴彦先生(京都大学名誉教授)が血管外科の手術をされる、新しい時代が来る訳ですね、で、血管造影をするという新しいテクニックが入ってくる、それで非常に良かった訳です。それが80年代に入るとどこの病院も一定のレベルに達しましたから、臨床だけでは研究として評価されなくなってきたんですね。
武曾 そういう時期になったんですね。
高林 臨床医としては達人でも新しい時代の基礎研究のトレーニングができていないと臨床の問題解決を考えるにも基礎的な考え方が不足しがちになると思いますね。
武曾 そうですね、まさにその事がこれからの問題でもあると思いますね。特に分子生物学の時代になりますと、臨床的な手法にこれらの研究手法を加味していくとなると、その研究では今のトップの先生よりも若い先生の方がどんどん進んでいる訳ですね。上から下に基礎的な研究の指導が出来る時代ではなくなってきている、という事ですね。ほとんどがまあ海外留学を終えて、あるいは大学の中で最新のものをやってきて、ここ
でそれが続けてやれるかどうかっていう事、かつ、それをすぐ上の者が指導できるかとなると、ますます上の者は勉強が必要ですね。
高林 指導も大事ですが、そのための環境作りこそ上の者が行っていく事が必要ですね。
髙月 私は大学でやってきた仕事の延長、あるいは留学時代の研究の延長っていう形をここで展開しようとする事は限界があると思います。それよりはむしろ自分の受け持っている患者を対象とする研究が重要ですね。臨床研究ということに対する世の中の考え方も変わってきました。対象となる人の人権の尊重が非常に強く言われます。ヘルシンキ宣言などの意識を高く持っておられないと許されない。私が調べたら、ちょうどその辺の事は厚生労働省が昨年の7月に出している臨床研究に対する倫理指針に細かく記されています。本研究所でも倫理委員会が作られていて、頻繁に開催していますね。
山岡 月に1回は開催しています。
髙月 環境作りという事では、病院の新築に際して研究所の入っていた当時の西館を改装して、アイソトープが使えるように、予算のギリギリの中で、何とか確保しました。
武曾 そういう風にある意味では最先端の事ができる施設を揃えつつ、患者さんの視点に立った臨床研究が可能である、という施設にはなっていると思います。
高林 今、髙月先生がおっしゃったような、新しい時代の医師主導型の臨床試験、これをしっかりやることによって出てくるいろいろな臨床的問題点を、基礎的な視点から解析するということも、この研究所病院でないとできないのではないかと思うんです。臨床の現場でやった事を基礎に返していって分析するという、そのためにはやはり厳しい倫理基準の中できちっとした科学的研究をやるということを再構築して、それにもとづいた、個人の思いつきの医療ではないしっかりとした臨床をやるということでここのステータスは上がっていくと思います。

昭和37年4月28日
新館増築当時
ベッド数510床

基礎的研究について

武曾 これから先の演題に話が移りましたが、その前に先ほどから80年代の話がありました。私が思うのに、その後、一般病院などの臨床現場と大学の中の研究というのがはっきり分かれ、又大学の中においても臨床を主体にやる先生と、基礎的なことをやる人が特に内科などでは分かれてしまい、2極分化が進んでしまったと実感していました。この研究所でも病院業務的な事が中心となって研究の方がポテンシャルな部分が落ちたという事は、非常に想像がつくんですね。それをどういう風にしたら今おっしゃったような未来の方にまた向かっていけるか、というのが私自身もこれから悩ましいところなんです。80年代から90年代にかけてここは、その中でも基礎的な研究もやられていた、と伺っておりますがいかがでしたか。
高林 最近大切だなと思うことは、施設のトップを占めるマネージャーとか我々がですね、大学との交流を積極的にして、自分自身が刺激を受け、自分のモチベーションを上げること。次に今大学でやられているトップクラスの事とここの臨床の現場とどう結びつくのだろうか、という事をいつもフィードバックする姿勢が必要だということです。そしてここが京都大学の一研究所として、もう少し大学に密着したサイエンティフィックな交流を求める声を発してゆく姿勢がとても重要な要因と思う。そこでひとつ出てきたのが、連携大学院というシステムが京都大学からオファーがあった。これをうまく利用して、大学院大学のポストを展開できるような交流システムをつくれば、新しい学問も入ってくるし、ここのトップがどんなモチベーションで仕事を継続して、どう咀嚼して臨床をまとめるか、というような事が出てくるんじゃないかと思うんです。僕自身はその時期そういう経験を少し積ませてもらったので、それは教室のサポートがあった事は大きいんですけれども、そういうシステム作りは可能だろうと思うわけです。
武曾 院長先生はその時にサポートしておられた…
山岡 僕は北野病院っていうものを全く知らなかったんですけれども、高林先生と関係を持つようになったのは、先代の小沢先生の時代なんですね。その時に、僕の専門でない部門の研究、“胆内結石”の研究だったんだけど、高林先生がやってきてそういう思考を持っている人が一般病院にもいる、という事が認識できたのが、第一のきっかけなんです。そこから、北野病院をみると科学研究費注4)がとれる病院である、そういうような所とは非常に綿密な、教室として逆に言うと利用できる所という感覚をもって先生を京都大学の方に引き込んできたんです。それが出発ですが、僕が教授になってからは正式に高林先生に我々の“消化管”という分野の、大学の研究の責任をもってもらう、という機会を提供した事によってこことは非常に密接な関係をつなぐ事ができたと思っています。だから、ここの外科が非常にここまで来れたのは、高林先生がいたという事と、高林先生と京大とうまく関係がとれて、ここで実験したものが、インターナショナルな雑誌にどんどん載って、というような一つのきっかけができたと思うんです。だから、これからは京都大学の、今高林先生が言ったように、向こうの先生方にここの良さをもっとアピールして向こうの研究のモチベーションのある方がこっちにやってくるなり、あるいはこっちの人を指導するようなシステムをここで作っていく事が、臨床の方はこっちに優秀な人ばっかりいるんですから、研究所そのものを発展させるのによいだろうと思います。そういう感覚になると、何も京都大学だけが相手じゃなくて、あらゆる大学もだし、あらゆる研究所との関係はものすごくとりやす?なってきているので、共同研究や指導を受けてここで研究する事が展開できたら、ここの研究所の役割は進むだろうと思います。その大きなポイントは科研費がとれるという事だと思いますね。科学研究費を取るような人達がここに来ないと、いくらいろんな事をやっても無理だと思うので、ここに科学研究費を取れるような人たちをどんどん連れてくる、という様な事を僕自身は思うんです。

山岡 義生《やまおか よしお》
京都大学医学部卒
平成4年10月京都大学医学部助教授
平成5年9月には同教授に就任
平成7年4月 京都大学大学院医学研究科消化器外科学教授
平成10年京都大学再生医科学研究所所長併任
平成15年4月より(財)田附興風会医学研究所所長代理、北野病院病院長
武曾 はい。
高林 今そのシステムをうまく利用しているのが、福田和彦教授(京大麻酔科)と足立健彦先生(北野病院・麻酔科部長)との関係ですよね。それから武曾先生のところも非常に若い人が集まってきている。やはりトップがきっちり臨床に足をおいてオーガナイズするとともに、それを研究活動にメッセージしてゆくということが大切ですね。
山岡 意識を持っていたらいいんで、分子生物学の細かい指導を部長が出来ないと不可っていうもんじゃなく、そういう時代の流れをいかに把握しているかという事でしょうね。
武曾 指導者の重要な仕事は環境作りだと思いますが、そういう意味で各部長の先生方が、研究所の主幹でもある、という事で、大学あるいはいろいろな研究所とのパイプ役といいますか、ご自分も含めて若い人に研究をオーガナイズする中心になるという気持ちでいっていただけたら、と思います。
山岡 そういう人しかここの部長たり得ないと思っています。
髙月 全くその通りです。やっぱり、サラリーマンの医者になってしまったらだめですね。今世の中変わりつつあって、国立大学も法人になる時代です。それで非常にフレキシブルにコンタクトがとれるようになるんじゃないかと期待しますし、またそうでないと、法人化のメリットがないですね。だから各部長がパイプ役になってそういうのをどんどん発揮してもらったらいいですね。
武曾 各部長が現実には研究所所員という感覚で日常業務をやれる余裕というのがなかなか無くて、もちろん科研費はみんな一生懸命書いてて、それぞれたくさんの研究のテーマを各科持っていらっしゃいますけど、これが全部科研費につながっているわけじゃないです。今回通った科研費もやはり今までたくさんここで基礎的な事も含めて、研究してきている、臨床直結型ではあるけれども、今までとれてた人が(科研費を)取れている、という感じですね。このレベルの事が今の部長の先生方が毎年毎年それがやっていけるかどうかっていう事になりますと、私も含めてなかなかハードルが高いというのも事実です。

《武曾 惠理(むそう えり)》
京都府立医科大学医学科卒
昭和59年10月パリ市ネッカー病院研究員
昭和60年9月フランス国立科学研究所客員研究員
平成13年4月(財)田附興風会医学研究所第一研究部主幹、同北野病院腎臓内科部長
平成16年5月
(財)田附興風会医学研究所副所長

研究所の可能性

武曾 研究所別館をどうしていくかという問題ですね。
山岡 研究所としての基本財産を如何に増やすか、ということですね。今から基礎に近い研究の、専属の職員をやとえるとか、そういうような所に持っていきたいですね。ここ10年位の間には。
武曾 私がこっちに来る時に最初に髙月先生に言った事は、研究所にいわゆるPhDの方が常におられるようなシステムはできないんでしょうかと、聞いたんです。答えはNOでした。私の留学経験から、世界的なところで、ラボと名のつくところは、やはりPhDの人が常に研究の現場にいて医師とのディスカッションを行い、医者はもちろん患者さんのところと両方にまたがっている、というのが、頭にあったんです。ここをそういう風に将来的にしたいというのが、今の私の希望でもあるわけです。
高林 僕の目から見て一部ではもうなりつつあると思うんですよ。
武曾 そうですか。
高林 僕がここの歴史を見ていると、髙月前院長の時代からとても充実してきていますね。
武曾 どういう所で充実してきていますか?
高林 やはり人が集まるようになってきている、それからテクニシャン、電顕の福井聡さん、動物をきちっと管理してくれる人がいますよね。
武曾 事務もおられますね。
高林 我々のDeptでも3年前からすると前進していると思いますね。実際PhDのポストで2人、来るようになっているはずです。6月からもう1人来るんです。
武曾 それはどういう形ですか?
高林 留学までの2年間、ここで研究するという計画です。ここへ来て仕事をしてテーマができて、それに集中してやる。我々の研究室カンファレンスにも一緒に入ってやる、という事ができるようになっているんですね。
武曾 ああそうですか。
山岡 やっぱりボスあるいはそういうのを指導していく副部長でもいいんですが、その人達が研究して自分で研究費をとってくると。そういうことができるから、ここはやりやすい訳ですよね。
武曾 非常にやりやすい訳です。だから私自身もそれでポスドクの実験助手を一人雇って研究現場にいてもらっている。しかし研究費は自分で作らねばなりません。それも科研費がだめだった場合はきついですね。厚生労働省の班会議などで何とか自分の裁量でやっている。だから医学研究所全体のシステムとしてはまだまだですね。
高林 ただ組織としてみると研究の場所を提供するっていうのも一つのこの研究所の可能性なんです。給料は別で、自分で研究費も調達する。
武曾 なるほど。
高林 そういう意味ではしばりがありませんからね。『光熱費等は病院がサポートします。ただ生活は自分でコントロールして下さい。使えるものはどうぞ、自由に使って研究して下さい。』という。『他との共同研究もいいでしょう』と、逆連動の自由度っていうのはあると思いますね。
武曾 これからの事なんですが、他の病院で臨床だけやっている先生方で週に1日位でも研究費をもらって、ここで研究する、というのを奨励しようかと思っているんですが。
山岡 大賛成ですね。
武曾 ただし、それはここにいろんな人が入り込むという事になる訳で、そうすると他の病院の職員が研究者だという名前でこちらの病院にもくる。それはどうでしょう?
山岡 経済的な問題さえクリアすれば、手続き上のことはいけると思いますね。
髙月 ただ臨床の現場に出るとなると、またいろいろなセキュリティがかかる。
山岡 ええ、そうですね。セキュリティの問題は、どの科に所属するかわかりませんが、資格を与えるには部長の責任でそれだけの人しか来られないようにするしか仕方ないですね。
高林 医者として倫理基準をきちっとしていれば、あまり大きな問題にならないんじゃないかと思います。研究も臨床もプロフェッショナルであるというプライドがないとダメですね。
山岡 ここが日本のMayo Clinic注5)の様な機関になる、というようなことを合言葉にしてくれたらいいと思う。
武曾 これはもう確かに究極の話ですね。
現実に戻りますが(笑)、研究費のことですが、もちろん皆、科研費をとるのが目標ですが、さらに企業との間の共同研究をすすめる、治験だけじゃなく、研究テーマを持つ企業に援助をいただくというような事はどんどん進めていくべきでしょうか?
山岡 すべきでしょう。今医学だけでなしに、工・医連携などは当然やるべきことだと思います。こっちに魅力がないと向こうも乗ってこないですがね。
武曾 この病院としてはそういう研究をサポートしていますから、論文に対して奨励金を与えるというシステムもありますし、海外発表もサポートしていく。これは非常にユニークであり、皆の励みになる事だと思います。これは最初のオリエンテーションの時にしっかり知らせないといけませんね。知らない人もいますから。
高林 それから例えば3ヶ月か半年間、短期留学をさせることも可能ですよ。その代わり、短期留学の業績をきちっと責任をもって発表する、当院の臨床の研究に還元する、という事ですね。 “何々の研究”という事に基づいた上で一応給与も渡しましょう、というようなシステムですね。このような制度をぜひ活用して欲しい、と思います。一度に多くの人が留学されて売り上げが落ちる事は困りますが…
一同 (笑)
武曾 非常に夢のあるお話がたくさん出てきました。
高林 コメディカルでもそうです、看護師さんももっと外に出ていく必要がありますね。例えば手術室から2〜3ヶ月癌センターの手術を見にいくとか、又は、あるケアについて世界のトップクラスのところに勉強に行くとか、ここは分達のプライドを養っていける組織であるという事をもう少し知ってもらって、“コメディカルの活躍の場としての研究所”の視点も育てて今後の活躍を期待したいですね。
武曾 これだけたくさんの看護師さんがおられて、そういう方向に向いていくのは当然だと思いますが、なかなか現実に学会に看護師さんが行くというのは難しいハードルがあるみたいです。やはり実績のある看護師さんたちが集まってきて、指導者になっていくと、自然にそういうようになっていくという気もします。
山岡 看護師さんの場合はね、指導者の奨励というのは病院として考えないかんと思いますよ。派遣することによってモチベーションあげて帰ってきて専門性のある看護師になられると、次のリーダーシップがとれる。さらに次が育てられる。そういう意味ではここの病院の中で看護師さんの教育は、内でうまくいくための教育システムは非常に上手に出来ているけど、外に向ける方は、まだもう少し考える必要があるかと思います。
武曾 実際に臨床の場で働いてきて、例えば医者が研究的なことをやる時に、看護師さんが全くそういう発想がないと、やりにくいという事ですね。
髙月 熱心な人もいると思いますよ。そのルートがつけば。
山岡 奨励制度ですね。
武曾 医師もコメディカルの方と一緒に色んな研究を計画していくことが大切ですね。
高林 それはぜひ副所長としてメッセージをしていただくとよいですね。やっぱり同性として言いやすさがあるでしょうから。
武曾 同性としての親近感は保ちつつ研究の方は厳しくやっていきたいと思っています。
髙月 いやいや女性の方がこの頃厳しいですよ、感染症なんかの分野などできる人についてはね。
武曾 きちっとしてますね。
山岡 彼女(小児科兼感染症科・羽田敦子先生)なんかはきてからパッとやってる。
武曾 “女性研究者の会”っていうメーリングリストがあって、女性の科学者のしんどい部分とか、出産・育児に対する世間の偏見に対して戦う中で、いかにして研究を続けていくか、というグループがありますね。
山岡 小沢先生がね、教授になった時に、そこに入れって連絡がきたんや。小沢和恵(オザワカズエ)やから。
武曾 なるほど(笑い)。
山岡 そこでね、小沢先生が“非”と書いてオザワカズエ(男)って書いて返した。
武曾 アッハッハ
山岡 いやホントにあった話。
武曾 いやーそうなんですか。このグループは非常にハイレベルな科学的ディスカッションから身近な話題まで扱っています。この病院の中で女性の研究者がどれだけ、がんばれているかっていう事を見ますと、臨床には非常に皆さんがんばれるけど、研究の方はちょっと疲れ気味という感じがいたします。この病院は男女差別はぜんぜん無いと感じていますし、やれる人はどんどんやれていけると思いますが、子供さんを産みたい育てたいという時期には、研究者あるいは医者としての女性には負担がかかります。これは男性も心して、院長先生も心して話を聞いて欲しいと思います。
山岡 これは病院経営上の問題でもあり、研究だけに関係したことではないですね。
武曾 日々の臨床が研究につながりますから、それが疲れてしまうとどうしても活動が貧困になる。
髙月 そういう事の旗をふる役として武曾先生、来られたんで非常に重要な役割がありますね。
山岡 全くその通りですね。
武曾 まあ同性として話はできると思いますけど、あまりrole moclelとしては説得力がない経歴ですので限界がありますね。やはり院内・院外のネットワークは大切にしたいと思います。さらに別のネットワークで、やはり文部省の科研費はもちろん大切ですけど、厚生労働省のいわゆる、科学研究費も非常に魅力のあるプロジェクトがいっぱいあるし、経産省などのプロジェクトに参加する、あるいは自分がアイデアを担って、中心になっていく、という風な指導もぜひ先生方にお願いしたいところですね。
山岡 これはねーもう非常に上手に中央や各研究所とお付き合いしとかないかんです。
武曾 そうですね、班会議の組織作りで何度も厚生労働省まで話をしなければならないという経験をしていますが、京都・大阪にいるっていうのは非常にハンディなことがあります。時には休診も止むを得ないこともありまして、それに関して皆様のご理解もいただきたい、と思います。
高林 以前髙月先生が学振のプロジェクトとして感染症に関する未来開拓事業のリーダーをされていたのです。本来なら臨床研究としてここの病院の先生方がそのプロジェクトに積極的に参加できたりしていれば良かったんですけど。髙月先生が院長をされていて他の大学の人にお金を配っただけで残念でした。
髙月 そうですね、大きなお金を配ったですね、僕には入らないですよ、僕の目の前をこう通っていくだけで。
高林 これから山岡院長がそれと同じようなプロジェクトに関係されていく事があるでしょうけどね。
山岡 むずかしいなー、東大を中心に動くからね。
武曾 確かにね。でも京都大学は力のある先生方がいっぱいおられるので、京大と連携を持っていただきたいと思います。
髙月 京大探索医療センターの福島雅典さんと中村肇君が医生物学フォーラム注6)を北野病院と一緒にしましたね。
武曾 そういう意味でここでやっているいろいろな催し物、医生物学フォーラムだとか学術講演会、研究所の発表会とかに、いろいろな先生方を招んで各科のプロモーションをその時にお願いしていきたいですね。
山岡 そうですね。
武曾 できるだけ幅広い先生方に来て欲しい。
高林 若い研修医や若年の先生方には一日臨床をストップして、そういう会に積極的に参加するように、メッセージをもう少し強力にやった方がいいかなと思いますね。
山岡 折角ここにいながらね。
髙月 毎日毎日の目先の事でいっぱいですからね。
高林 研修医の先生方に対して各科の部長会で積極的に対応してほしいな。なにかの研究発表会(分子生物学セミナーなど)がある時は積極的に参加するよう、出席をとって何回年間出たかとか。
山岡 人事考課としてそれに意欲があるかどうかも一つの項目として、当然だと思んですよ。
髙月 それはもう項目として加えるべきですね。
武曾 そしたら皆あらためてまた気持ちが沸いてくるかもしれない。
髙月 みんな勉強にきていいと思いますね。
武曾 研修医の時からこういうムードだっていう事をね、教えておく。
高林 そうですね、やはりイニシエーションー初期教育―は大切ですよ。
武曾 この北野研究所の設立が非常にユニークであることを、もう一度認識していただいて、新しい研究体制を確立していただきたいと思います。
本日は有難うございました。
注意

注1) 小澤和恵…京都大学名誉教授、(財)肝臓疾患医療研究財団理事

注2) 中尾一和…京都大学大学院医学研究科(内科系専攻)教授  専門分野 内分泌・代謝内科学

注3) 大熊 稔…元日本血液学会会長

注4) 科研費…科学研究費補助金は、我が国の学術を振興するため、人文・社会科学から自然科学まで、あらゆる分野における優れた独創的・先駆的な研究を格段に発展させることを目的とする研究助成費で、大学等の研究者又は研究者グループが計画する基礎的研究のうち、ピア・レビューにより学術研究の動向に即して、特に重要なものを取り上げ研究費の助成をするものです。 〔日本学術振興会制度概要より抜粋〕

注5) Mayo Clinic…ミネソタ州、フロリダ州とアリゾナ州の3つ拠点病院と約60の関連施設から構成され、臨床(Clinical practice)、教育(education)、研究(research)を3本の柱(盾)とし世界で最も優れた医療を提供することを使命としています。全米病院ランキング(Americaユs Best Hospitals 2003)では総合で2位(1位はThe Johns Hopkins Hospital)中でも消化器、神経、整形外科などの専門分野では全米1位となっており、名実ともにアメリカを代表する医療施設。教育システムも充実しており、世界各国から多くの留学者が集まっています。

注6) 医生物学フォーラム…“広い視野から医学と生物学の密接な交流をはかり、その研究環境を充実して21世紀を担う若い研究者を育成する”このような目的で、1992年8月に発足されました。平成16年7月には第13回を迎え、『探索医療』というテーマで開催されました。