096田附興風会 理事建築家元々体は丈夫な方で、子ども時代もケガはともかく大きな病気をした記憶がない。10代後半にはプロボクサーのライセンスを取得、過酷なトレーニングと減量に耐えて闘う身体をつくった。その感覚を、ずっとひきずっていたのだろう、建築の道に進み、社会に出て働きだしてからも日々の鍛錬は欠かさず、体重・体調管理には人一倍気を使った。そのまま30代、40代、50代と、仕事にひた走る日々。病院とはほとんど無縁の半生だった。そんな私が北野病院の医師の方々と交流するようになった。きっかけは第15代院長の髙月清先生。確か2000年代初め、私が60代に入った頃だったと思う。大阪市内のある会合だった。先生から、創立以来の京都大学医学部との相関関係とその根幹にある臨床研究の精神、それを維持すベく病院経営の苦労など、聞かせて頂いた。それまで考えたこともなかった医療・医学の違いに得心しながら、先生方の仕事に対する情熱、病院に対する誇りに感銘を受けた。以来、定期健診など、ことあれば北野病院を訪ねるようになった。とはいっても、相変わらずの健康体だ。何も問題がないのが当たり前の人間ドックだった。だが人生、何が起こるか分からない。2009年、68才の時、検査で異常が見つかり、ガンを宣告された。十二指腸乳頭部の腫瘍で、胆のう・胆管から十二指腸までを全摘する必要があるという。“不測の事態”も起こり得る大手術だ。予想すらしなかった事態に大いに慌てたが、ともかく家族のこと、事務所の仕事のこと、ずっと一緒に頑張ってきたスタッフのこと―大切なことから一つ一つ順番に、責任を果たしていくしかない。1カ月余りの間に可能な限りの身辺整理を済ませ、もしもに備えて遺言も書いた。執刀は顔見知りの先生が担当下さった。「ともかく最善を尽くします」という先生の言葉に力を得て、覚悟を決めて手術日を迎えた。9時間に及んだ手術は無事成功、目覚めると先生は「頑張りましたね」と声をかけて下さったが、頑張ってくれたのは先生のチームだ。すぐれた病院、医師に恵まれた、私は幸運だった。術後7日目には管も外れ、モノをロに出来るようになった。ここからは、患者が頑張る番だった。「ともかく食事は毎回残さず摂るように」「見舞客の対応は控え、毎日歩く運動を欠かさぬよう……」安藤 忠雄財団創立百周年を 迎えるにあたって
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