第2の時期と考えられる1990年代は、今から思うと各科の医師・看護師ともに生き生きしていたようだ。大阪の他の主要病院がそれぞれ頭角を現しはじめ、“北野が負けてなるものか”の勢いが感じられた(振り返ってみると、この時期は後に京都大医学部を背負って立つことになる俊才が数多く集まっていたようで、各科の臨床・研究も非常に活発であり、各科とも科研費の獲得を競った……特に胸部外科の活躍は目覚ましかった)。学会活動、英文論文も数多く発表されていた。私にとっても所謂「家住期」を迎えた時期(1人前となり独立し、家族―外科チームとともに活動)、良き後輩が多く集い(スタッフも15人を超えた)、北野での臨床研究が軌道に乗った。科学研究費の獲得により研究室も少しずつではあったが整備されていった。また大学の基礎研究室との交流も順調で論文発表が可能になった。“北野外科”として主要学会のシンポジウム、ワークショプへの出席が求められ、存在が認められた期間であったな、と感慨が残る。095き立ち、京大外科が一躍脚光を浴びることとなったが、大学との共同研究が望まれる北野外科での癌臨床研究は、立ち止まらざるを得ない状況となっていった。そして1995年1月17日の阪神淡路大震災に遭遇。古くて汚い!との評判の病院は驚くなかれこの震災にびくともせず?毅然と患者さん・スタッフを守ってくれたのである。とはいうものの、再開院以来70年の建物には限界もあり、新病院棟建立の気運が一気に高まった。ミレニアム2001年9月、現在の地に念願の新病院棟が建立され、北野にとっての新千年紀の始まり、長年の夢の実現!ではあったが、現実は新病院建築にまつわる大きな負債を、日々意識せざるを得ない厳しい出発となった。私としては第3期の「林住期」の10年(ゆったりと思索の日々)を迎える時期であったが……この時期に至り、病院の執行部に名を連ねることになった。そして学んだ事は、医師とは病院組織を経営する資質は全く持ち併せていない人種であるということ。即ち、今後の財政管理・再建をどうするのか?病院運営の責任はだれが担うのか?など、何となくもやもやした議論で日々を過ごし……、一方では魑魅魍魎の跋扈。“それでも病院は粛々と機能して、動いてゆくのだ!”との現実。しかしこの事実は、当時すばらしい価値観と確固たる自信を持った各科の部長たちが微動だにしなかったからこそ、可能であったと思っている(病院を去った部長は一人もいなかった)。“公的病院運営とはこんなものなのだ”と自己完結。専門バカとして育った自分にも、運営についての知的、文化的装置は全くなかった。情報的な知識のみが自分を取り囲むに過ぎなかった。“新しい革袋には、新しい酒が必要”との教えの如く、新病院でも素早い組織改革が求められ、新秩序の構築を考えていった。医療情報オーダリングシステム導入、診療部門の拡充(救急部、総合診療部、健診部、リハビリ部門、乳腺外科、心臓血管外科など)、さらに、がん拠点病院体制、保育所の整備などなど……とともに診療の合理化のため関連科のセンター化を進めた。当時、急速に進歩する科学技術と今後どのように向き合ってゆくべきかを考えると、病院での臨床の充実のため新しい体制への移行とともに、可能な限りのインフラ投資を考え各科のモチベーションが上がるよう努力するしかないと、必死の思いであったことが思い出される。しかし現実は、厳しい財政を意識させられながらの日々。だが一方では、責任を問われないということは何と気楽なことであろうかとも。だからと言って、だらだらと惰性的に過ごしていたわけではない。海外での学会発表、院内での8年間続けた消化器国際シンポジウム、医生物学フォーラム……。研究所部門へのテコ入れであった。京都大学との連携大学院構想(文部省から院生教育予算も支給された)などが試行錯誤されたが制度改革の発芽は時間のかかるものであった。ただ「医学研究所附属北野病院」の設立の理念から考えると、もう少し大学との交流を活発化して、京都大学の「大阪での臨床研究のパートナーシップを担える機構」の確立があればとの思いは、北野を去るまで変わらなかった。平成の30年間を見つめてみると、今後医療は飛躍的な技術革新とともに、医療のインフラ関連産業との連携という次元の異なる世界が展開されるであろう。医療部門にだけではなく、多くの英知が集まる病院になってもらいたいものである。現在私は自適生活を楽しむ「遊行期」にあり、ひたすら自分に没頭する毎日である。歴史を振り返るとは所詮記憶の累積に過ぎない。精神活動の低下を認識している今、北野の思い出が己の主観的な回想録的になってしまったことはお許し願いたい。
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