250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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第1の時期は1980年代の10年。世はまさに“バブルの時代”の到来を予測するような明るい時代風景。病院も新たな時代への対応と、新しい建物“西館”が完成。専門疾患の病棟(循環器、呼吸器外科、脳外科、神経内科、透析など)として活動を開始した。地下にあった中央手術部も……しばしば外部の闖入者(イタチやある種の昆虫!)を認めるような環境から……西館4階に移り、その存在感が増した。そして世はバブルに突入(北野病院は 文部省からの「特定公益法人」指定をうけ、医学における総合臨床研究では援助を受けることが可能であったが、この時期の社会的背景としての経済的高揚とは無縁。財団法人としては、財政的に組織の足腰を強くするには願ってもない時期であったのだが……。とはいえ、病院という隠花植物園にも明るさは訪れていた)。094田附興風会 医学研究所北野病院 元副院長、消化器センター長、外科部長、京都大学連携大学院 教授、研究所副所長(医療法人桜花会 理事長)人は一般に、自分の生涯カレンダーとして、それぞれの目的を設けて年齢の大切な節目を考えてきたようだ。古代インドでは、人生100年を25年毎に「学生期」「家住期」「林住期」そして「遊行期」ととらえる考えがあると言う。しかるに、私が外科医として自分の小さな歴史を振り返るとき北野病院が“わが伴侶”として存在した。北野の思い出は自分の生涯カレンダーと一致する。初回の赴任は大学での研修が終わった後(1973年)。現在でいう後期研修医としてであった。本来心臓外科医になりたくて外科を選んだが、“まず外科の基礎として一般外科を勉強して来い”と北野病院への赴任となった。突然毎日朝から晩まで血まみれ?の消化器外科を勉強することとなった。大学では経験することの無かった“とんでもない症例の山”と向き合う日々、多くの先輩、各科のDr.たちと、今後の人生どうあるべきか?など、考える暇もなく手術、手術の日々を楽しく過ごした記憶が残っている。しかしながら、特に進行消化器癌との出会い・■藤は強烈な衝撃となり、北野からの出発が、自分の将来を決定する大きなきっかけとなった。それは帰学に際して、大学院生活の方向は心臓外科ではなく、消化器外科、即ち消化器癌との戦いの道の選択であった(この頃の北野は、天六のガス爆発事故〈1970年〉への対応以外、のんびりした古き良き時代……月一度の夕方の院内CPCではうどんを食べながら……のおおらかさ。また病院構内の一隅では、1匹の羊(研究用)が毎日のんびり草を頬張っていたのが印象的であった)。1981年留学から帰って、臨床の再スタートと思っていた時期に教授(日笠賴則先生、後の北野病院長)から“研究を続けるように“と指示された赴任先が、“医学研究所北野病院”であった。以後約30年間のお付き合いになるとは……。10年を一つの節目と考え、私の在職時代の北野を振り返ってみることにする。私にとってのこの10年はまさに「学生期」。消化器癌制圧に対しては外科治療が全てであり、メスの力で何とか突破口をと拡大根治術の世界へ飛び込んでいった。また北野病院での臨床研究の継続を使命と感じ、文部省の科学研究費獲得に情熱を傾けたことが記憶に残る。しかるに当時は“医学研究所”と名乗るには研究所施設・設備の近代化には関心が寄せられていなかった(責任者から、研究は個人の趣味だから!との突き放されたような言葉は心のとげとなって残った)。しかし病理部門の先生、技官の皆さんの研究協力は大いなる励ましとなった。バブルの終焉が予測される1980年末、世界は次々と新しい歴史を創っていった。ベルリンの壁の崩壊、ソ連の崩壊、そして湾岸戦争の開始。1991年バブル崩壊。しかるに外科の世界では、世は生体肝移植に沸高林 有道北野病院 ある時代の実像—私の外科医としての生涯カレンダーと伴に—

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