093看護師さんの確保のために遠く九州、四国、中国方面に募集の人を派遣しておられるような状態でした。当時の北野病院の人件費は、近辺の病院の医師も含めた平均賃金に比して低めでしたので交渉は簡単にまとまるものでなく、いつも深夜に、時に早朝にまで及ぶ団体交渉の日々が続きました。この団体交渉は小生らにとって誠に時間のかかる、かつ憂鬱なものでmental、physical なストレスとなっておりました。さらに当時、北野病院の公益財団法人としての位置づけがどうなるか判らないという不透明な状態が続いていましたので、理事長、院長、事務長らはこの方面でも誠に多難でした。その後、時代の変化、医療の進歩とともに当時の古い病院のままでは北野病院も時代の波に乗り遅れて沈んでしまいかねないという危機感から、新病院建設の話が進むようになってきました。当時新築するとしても特に近辺に十分な空き地がある訳でなく、西館の北側にあった建物の土地が空くという話もありましたが、敷地面積が十分ではありませんのでこの話も立ち消えになりました。また診療を続けながらの建て替え案も考えられましたが、これは時間と経費が掛かりすぎるということで駄目になり、なかなか新築の話は難航していました。しかし、当時の旧北野病院の北側と南側に、もともとあった二つの中学校が、時代の変化か、幸いなことに少子化のためか、二校が合併して一校を閉鎖するということになり、その土地を譲って頂くことになってやっと新築の目途がつきました。まさに幸運と言うほかはありませんでした。建築設計の段階になってからは建築会社といろいろと検討がなされましたが、当時問題になったのは病室の廊下を以前の様にするか、あるいは円形にするかの点でした。しかし病室の廊下は曲がり角での衝突防止、また廊下の死角をなくすという意味から円形の廊下にする案が採用され、やっと現在の立派な新北野病院の建物の建築に進むことになりました。小生は、定年退職を半年間(第12回日本脊髄外科学会の会長に当たっていましたので)延長して頂きましたが、建築開始前に退任しました。現在の病院の機能性などについては院内で働く方々のご意見を直接お聞きする機会は時々ありますが、新病院棟が患者さんや職員の皆様にとって快適な、また使い易い、働き易い環境であるようでしたら幸甚に存じます。北野病院勤務時代の小生の記憶は多忙であったこと、いろいろ大変だったことなどが混在していますが、北野病院が現在も引き続き多くの悩める方々のためにお役に立っていることを嬉しく思います。新しい研究施設も完成し、臨床のみならず研究についても一層のご発展を祈念するものであります。
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