092田附興風会 医学研究所北野病院 元副院長(城山病院 脳神経外科 脳神経減圧術研究所 所長)1984年当時、小生は静岡県立総合病院に勤務していましたが、京大の脳神経外科の半田肇教授と北野病院院長の日笠賴則先生から北野病院脳神経外科部長に赴任するようにとのご指示を受けました。しかし新設の静岡県立総合病院に赴任して間もない時で新しい脳神経外科がスタートしたばかりの時でしたので、一旦はお断り致しました。しかし、その後再び両先生から大阪に赴任するようにとのご指示がありました。小生にとって北野病院脳神経外科で働くことは魅力的でしたが、新設されたばかりの静岡県立総合病院より、あの“きたない” 病院と陰口をいわれた北野病院に移るのは、やはりもう一つ気が進まないというのが正直なところでした。当時の北野病院は建物が非常に古いだけでなく、誠にスペースの狭小な病院でした。各診療科での診察待ちの患者さんのための椅子は言わずもがな、初診受付、薬局、支払清算のスペースは極端に狭く、かつ椅子の数も少なくて患者さんが立って待っておられるという、現在ではとても考えられない状態でした。救急外来処置室も同様に6畳あまりの狭いスペースでしかないという状況でした。北野病院の脳神経外科は、初代西村周郎部長以後立派な部長がおられた伝統ある診療科であり、毎日多数の患者さんが脳神経外科を受診しておられました。着任当時に感じましたことは、新設の病院の脳神経外科に着任した時と異なって、北野病院脳神経外科としての伝統を守りながら、さらにそれを発展させる責務があるとの強い思いでした。それまでわが国で行われていなかった新しい手術法である脳神経減圧術(三叉神経痛・顔面痙攣・舌咽神経痛に対する手術療法)なども精力的に行い、これをさらに発展させるべく努力しました。副院長になってからの小生の日常は随分と変わりました。北野病院は、以前より労働組合運動の極めて盛んな病院でしたので、原則として院長、副院長は年に数回、つまり春闘、秋闘、年末などの時期に数日間組合との団体交渉に出席する必要がありましたが、実際には事務長、副院長らがいつも交渉に当たる役目でした。当時は北野病院のみならず大阪近辺の他の病院の組合員も北野病院の団体交渉に出席しておられるような状態でした。勿論、交渉議題は賃金、労働条件、環境、さらに看護師さんの確保のための要求などなどで、当時は近藤 明悳北野病院 勤務時代の想い出
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