250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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091銀行融資団からは医療レベルをますます向上させるために今まで以上に京都大学医学部と密接な人的関係を持ってほしいとの要望がありました。さらに融資団からは融資を応諾するには財団理事長、常務理事、建築担当副院長の3人の個人保証が必須であるとの要求がありました。少なくとも私には個人保証にふさわしい財力がないことは明々白々であり無意味な保証ですが、融資団からは“覚悟をもって真面目に新事業に当たってほしいと言う意味だ”との説明があり、やむを得ず保証書に署名しました。建設が始まると北野病院(今井・事務長)、融資団、共同企業体からなる合同会議が毎週1回開催されました。主に建設の進■状況について議論されました。一度だけびっくりしたのは整地中きわめて大量の地下水が湧出し数週間にわたり工事が中断しました。その後の工事は極めて順調で、さらに工事中に亡くなったり大けがを負う人はおらず幸運でした。新病院の建設には直接関係はありませんが、大変な問題が起きたことがあります。政府が公益法人の見直しを始めたことです。公益法人の資格を失うと巨額の法人税支払いの義務が生じます。この問題に対しては財団監事であり公認会計士でもある奥田実氏のまさに獅子奮迅の活躍、弁舌により問題が解決されました。奥田氏は高校生時代にアメリカに留学したそうですが、その際にディベート力を磨いたものと私は推測しています。奥田氏は融資団や企業体との交渉などでも非常に重要な役割を果たしました。私が副院長に就任した当時の病院事務長は大阪市役所から転籍した田中實氏でしたが、大阪市役所とのさまざまな軋轢があり途中で荒木久友氏に代わりました。新病院棟に関連する総事業費が370億円という巨額なものであったため、それにかかわろうとする不正な輩が院内外から輩出しました。まさに魑魅魍魎、牛頭馬頭どもです。荒木久友氏はその煽りを喰らい途中で退職しました。事務長が不在になったため私が1999年5月1日〜7月6日の間事務長を兼任しました。医師が事務長を兼任したのは北野病院では空前絶後のことと思います。その後は大阪ガス出身者である白須章文氏が事務長に就任しました。民間企業出身者が事務長に就任したことは北野病院にとって画期的なことであり経営については新しい第一歩となりました。日本生命出身の安達篤夫顧問の就任も重要な出来事でした。北野病院が病院機能評価を受けたのは2005年(ver.4)ですが、私はその実務面での責任者として任に当たりました。その際にはすべての病院職員の皆様方の協力をえましたが特に各診療科部長、看護部長、事務長に感謝します。機能評価受審の際に新しく文書化した病院理念がありますが、それとは別個に科学的で客観的なエビデンスに基づいた臨床医学の実践・臨床および基礎研究についての議論を関係諸氏が今一度行い、一層深化した理念を全職員が共有することができれば素晴らしいのではないかと考えています。新病院建設の際、北野病院が大きな間違いを起こさず歩めたのは、すべての病院職員の皆様方のおかげですが、私個人にとって特に大きな力になったのは、田附正夫理事の心温まる励ましであり、髙月清院長の明確な経営方針、奥田監事の博識・弁舌、さらに私の医学部同級生であり日本生命で役員を務めた沼田輝夫監事の適切にして的確な助言です。北野病院のますますの発展を願っています。

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