085資金をあたらしい企画に向けることが可能になった上、懸案であった個人の連帯保証もはずされることになり、やっと、中期経営ビジョンと言ったものを出せる状態になった。看護部長に日大板橋から松月みどり氏を迎え、2交代制、7対1体制作り、ナース・ライフ・ワーク・バランスの意識が芽生えだした。また、企画調整課に経営企画チームとしての役割を持たせた。各部署から新施策案(具体的な内容、必要な人員・機材、タイムスケジュール、費用対効果見込み)を提出させ、具体性のあるものからワーキンググループを立ち上げ、SMBCから出向してきた朝日氏を中心に営繕課の中井氏の素早い図面を前にして熱い議論の末新しい企画が次から次へと実現していった。持参薬管理センター、ICU、CCU、NICU、外来化学療法室、看護師外来、地域連携サービスセンター(たこ焼きの会発足にも貢献)など、2005年度以降「槌音が聞こえない時がない」と表現したほどに、院内のどこかでいつも工事が進んでいた。職員からの提案によって新しい企画が次から次へと実現していった。人事課の高平氏の働きで医師の人事考課による給与の決定を実施したのをきっかけに徐々にではあったが全職員に人事考課の意識が浸透していった。就任からしばらくして公益財団法人への移行の可能性を検討することになった。北野病院は医学研究機関としての働きの中で医療はその臨床部門であるという組み立てを模索した。東京の癌研も同じ立場なので東大外科から院長で行かれた武藤先生にもご相談したが「北野はもうそんなことまでやってるの?」と逆に質問されたほどで、北野病院の両監事の先見性のおかげであった。このことは、研究機関に不動産所得税・固定資産税を課するのは法に反する、の考え方も成り立ち、奥田実監事のご奮闘で、そのころの日本弁護士会の会長、鬼追弁護士事務所にお伺いを立てていただくと「面白い案件」ということから大阪市を相手に訴訟することになった。私が院長職を辞する寸前に最高裁で勝訴が決まった。祝杯を共にした奥田先生の目から大きな涙がこぼれたのを昨日の事のように思い出す。課税がなく、それまで納めていた税金には利息をつけて返還されるという快挙であった。5階のプラナホールを憩いの場所に、の構想は建設当初からあった。北野病院OBの土屋先生からグランドピアノを寄付していただいたのをきっかけにジャズバンドの演奏を寄付していただくとか、声楽の方の演奏、弦楽四重奏など、ゆるやかに浸透していった。最高の贈り物は“チェロの世界的巨匠”ミッシャ・マイスキー氏に朝日新聞音楽振興財団の厚意であのホールで演奏会をしていただけたことだった。はじまりの挨拶で、思わず「神様って本当にいらっしゃる、と感じています」と言ってしまったのを思い出す。何もかもがうまくいったわけではなく、多くの失敗もあり、職員に多大の迷惑をかけたことも思いだす。解決に向けては、ほとんどの職員が着任時から合言葉として提案していた「この一人の患者さんのために私は何ができるか?」のおもいを持って病院の進み方を前向きに考えサポートしていただいたおかげでしのぐことができたと感謝している。80周年記念事業と称して、多くの個人、企業に寄付をお願いして運営の資金にせざるを得なかった苦しい時代でもあった。ナカジマ鋼管からは毎年、次のステップに欠かせない機器・装置・救急車など目に見える形で支援いただいた。また、上海の復旦大学・崋山病院との連携の仕事を始め、医師および職員の派遣、理事・評議員として実際に運営に関与していただいた京都大学・京都大学医学部の支援なしではあの大きな病院の運営はできなかったと感謝している。
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