084田附興風会 医学研究所北野病院 第16代病院長新病院が2001年に完成し、私は京大を2003年に退職、北野病院院長に着任した。335億円の借入に対する返済と、固定資産税3億円と言ったすさまじい額の金をいかに捻出するかが着任早々の仕事であったと思い出す。監事に奥田実、国谷史朗両氏がおられ「大変ですぞ」のお話をお聞きしたが実感はなかった。SMBC、りそな銀行の金融庁から見た不良融資先と位置づけられていたことから、先ず、その脱却のための策を練らねばならず、事務部・監事からの提案で診療報酬の債権流動化、外部に積み立てていた退職年金の解約、2002年、2003年の減価償却を一括処理、そして極めつけの2004年夏の賞与を0.5月分しか支給しないなどの綱渡りで、見せかけのキャッシュフローをプラスにした。賞与のカットは危機感を感じて退職していった人達、緊張感をもって仕事に邁進し業績向上に貢献した人達に分かれた。それまでの北野病院は誰が本当の責任者なのかわからないまま、誰かが何とかするだろうと思いつつ時間が過ぎてきたのではなかったか?と感じた。責任は自分がとると明言せざるを得なかった。そこから大きな改革が始まった。ベッド稼働率を上げるために「断らない救急」を実施、当直制度を根本的に変更し、麻酔科・脳外科・産科・小児科・循環器内科は常駐の上、院長を含む各科部長が交代で当直責任者となり、その下に内科系・外科系医師・レジデント・研修医をつける13人が当直医となり、外来のみならず病棟での患者の変化にも対応することに切り替えた。実働する医師の採用を目指し、各科の定員制をなくし、新たに設けた人事委員会(院長・副院長〈3人〉・看護部長・事務部長)で部長は新規採用予定医師の参加により業績がいかに変化するかを説明する義務を負うことにした。また、大学に対しては医師の採用について教室からの推薦があっても北野病院での実働3カ月のおためし雇用の評価によって採用を決定することを通知した。このような施策と合言葉とした「この一人の患者さんのためにできることをひたすら」ということを職員一人一人が意識して、涙ぐましいまでに実行していただいた結果、2005年度は8億の医業利益を得ることが出来た。その業績改善を見て、みずほ銀行からりそな銀行65億円分に対し利率条件を良くして肩代わりするという提案(殴り込み?)があり、メインバンクであったSMBCが中心になり(当時の梅田支店長井上篤彦氏の尽力により)3行によるリ・アレンジメントが成立、年利0.5%減、25年が40年返済に変更、直近6年で21億円ほどの山岡 義生職員提案型の病院を目指して
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