250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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083■その他私は決して社交的な人間ではないが、推薦する人がいて1997年に大阪ロータリー倶楽部の会員になり2009年には副会長を務めた。ロータリーの卓話の司会をした縁で知り合った建築家の安藤忠雄氏が新しい病院を見たいと言って院長室に来られたことがあり、白須章文事務部長(大阪ガス出身)に対応を頼んだ。安藤忠雄建築研究所は北区豊崎町にあり、当院との縁ができて財団理事をして頂いている。熊本大学在任中に京大ウイルス研究所の淀井淳司教授の発案で、医学・生物学の若い優秀な人材の交流の場とする目的の「医生物学フォーラム」を講演会シリーズとして企画し、第1回を1992年8月1日京大会館、第2回以降はおもに京大臨床講堂で開き、第11回と第12回は「きたのホール」で開いた。第13回(京大臨床講堂)を最後としてこのフォーラムは終了とした。社会福祉法人北慶会(北野よろこび苑)も気にかかっているが、地元との関係で大切な施設であり、北野病院として十分な配慮をしていただきたい。■近況私は以前から高血圧症、糖尿病、心不全、緑内障などが指摘され、最近はfrail状態にあることは自覚している。熊本大学卒の先輩大道學先生に誘われて城東区にある大道会ボバース記念病院リハビリ科の非常勤医として2008年から週2回勤めていたが2018年3月に辞めた。これで無職となった。2018年10月に第20回国際Human Virology学会(会長は旧友Dr.R.C.Gallo)でLifetime Achievement Awardを受賞するため夫婦で米国Baltimoreを訪ねた。立派な祝宴で、数人の旧知とも会い互いに懐かしがった。謝辞では60歳台で亡くなった4人の共同研究者のスライドを出した。この旅は私にとっては88回目、人生最後の海外出張であった。銀行(住友銀行と大和銀行)からの融資が実現の方向で動き出す。総事業費の決定がないまま工事が始まる。その間「梅八葬儀店立ち退き問題」などがあった。安達篤夫氏(京大法昭35卒、元日本生命)を院内組織刷新の顧問に迎え、奥田実氏(当財団監事、公認会計士)を対外交渉の特別顧問に依頼した。起工式(地鎮祭)は1998年6月30日(火)に挙行された。大阪市の關淳一助役の出席を得て、私は乾杯の際「関係する企業体は各々職業倫理に則って下さい」と挨拶したことを覚えている。建築の総指揮を取った鴻池組取締役副社長の故・山上武宏氏にはご苦労をかけた。工事中断のトラブルなどがあったが、地下3階、地上15階、ベッド数741床の総合病院が完成、引き渡しが2001年5月31日(木)、竣工式は6月5日(火)であった。大阪市からの出席はなかった。開院式8月23日、内覧会24日、私は9月1日(土)にKKR梅田ホテルに泊まり2日(日)朝、移転の号令をかけ入院患者の転床が終了、3日(月)に外来が始まった。院長としての苦渋は、銀行から個人保証(財団理事4人に各々66億円)を求められ、本庶佑理事長(京大医学部長)、本田孔士京大病院長、髙月清北野病院長、今井輝國副院長が引き受けざるを得なかったことである。個人保証は2006年3月に解除されたが、後の理事長・理事を含めて諸先生にはご迷惑をかけた。私は2003年に院長を辞め、財団理事、2011年からは公益財団法人評議員をしている。北野病院は赤十字、済生会、KKRのような連帯組織がなく、法人認定も厚労省ではなく文科省であることが特徴である。かねてより大阪市に対して「本財団は研究機関で非課税」と主張していたが、最高裁で市は敗訴し2009年に過去7年分の課税額を本院に返還した。顧みれば設計の段階ではまだ喫煙室や図書室が必要とみられていたが、今は転用されている。

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