082■北野病院の新築着任時の北野病院は現在の扇町小学校の敷地にあり、大阪市(教育委員会も含めて)との間で土地を交換することは同意を得ていると当時の田中實事務部長(大阪市役所出身)から聞いていた。新病院の設計は(株)日建設計、建築は(株)鴻池組が主となる共同企業体ということも知った。しかし、田中事務部長は新病院棟建設には危惧を抱いていた。1997年4月に着任した荒木久友事務部長(大阪市役所出身)は努力したが、大阪市側の勢力による抵抗に遭い気の毒であった。私は4月2日に荒木事務部長を伴って、京大医昭27卒で厚生省に長年おられた故・大谷藤郎氏の紹介で「社会福祉医療事業団」の黒木武弘理事長(元厚生省事務次官)に面会し新しい病院の計画を説明した。理事長は宮崎県高鍋町出身で焼酎「百年の孤独」で知られる黒木本店は自分の本家だと言われた。この事業団にはその後も3回通い、最初は設計が贅沢過ぎると言われたが「21世紀の病院です」と主張し、最高額の融資を決めて頂いた。厚生省関係では、山口県萩市都志見病院長の故・都志見久令男博士(京大医昭32卒、北野病院外科に勤務歴)の紹介で、萩市出身の厚生省羽毛田信吾局長(京大法昭40卒、後に宮内庁長官)を訪ねたこともある。羽毛田氏は京大相撲部にいたそうである。事業団からの融資が決まると都市田附興風会 医学研究所北野病院 第15代病院長1996年4月〜2003年3月までの7年間、北野病院の病院長を務めた。私の略歴を言えば、本籍は愛媛県宇和島市、1930年に東京都杉並区阿佐ヶ谷(当時は東京府豊多摩郡杉並町大字阿佐ヶ谷2丁目643番地)で出生、小学1年で京都に転宅、下鴨小学校(国民学校)、京都府立一中、旧制三高を経て1954年に京大医学部を卒業、実地修練後、医籍登録、京大大学院医学研究科博士課程修了、京都大学医学部第1内科、副手、助手、1961〜1964年に米国コロンビア大学内科研究員、1972年京都大学医学部講師、1981年12月熊本大学医学部教授(4年間付属病院長)、1996年3月に定年退職。熊本大学に在籍した15年間は無欠勤であった。1996年4月1日朝に北野病院に初出勤した。1966年4月30日刊の『再開十五周年記念北野病院史』によれば、1956年に内科では「医局員急減のため京大一内科講座より大学院学生高月清君の応援を願った」とある(137頁)。短期間の勤務であったが、患者の混雑と建物の古いことに驚いた記憶がある。私は2019年7月に満89歳を迎える。記念誌が刊行される2025年には鬼籍に入っている公算が高い。記念誌を読めないのは残念であるが、折角の依頼であるので執筆しておく。■私の略歴2019年3月29日にご寄稿いただいた回顧録を掲載させていただきました。髙月清先生は、去る2021年5月23日に逝去されました(享年92)。当院発展のためにご尽力賜りましたことに深く感謝いたしますとともに、ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。髙月 清財団創立百周年記念誌への寄稿
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