250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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4回目は、北野から新設の国立循環器病(研究)センターの部長へ転じ、次いで母校、京都大学の教授となり、医学部長に推されると自動的に北野病院の理事長となり、移設・新築する時の北野病院にかかわることになった。の4案が教授会で議論されたが、京大らしく、イージーゴーイングな妥協をしないこと、如何なる困081手術見学は多数を数え、その後の日本脳神経外科の近代化に資することができた。戦後の再開時に、当時の敗戦直後の困窮の時代なので、病院の規模を1.大阪市大病院との融合2.診療所で再開、当分は外来のみ3.50床程度の病院で再開4.全館同時再開難があっても、開院時の志、理念を失わず、本来の目的に沿っていくことが選ばれ、その時、困難な道を選んだことは、その後の病院が如何なる困難に際しても、本筋を貫くという京大らしい根本理念となったことは尊いことであったと思う。この事は2001年の病院新築移転に際しても、如何なる困難があっても、初めの志を曲げずに将来へ向かう精神で立ち向かえたと思う。大阪市の幹部の方々、医師会、和同会の皆様の絶大な御支援の中、職員一同の努力もあり、資金不足を克服し、京大医学部、北野病院の志は守られたと思っている。新築直後の病院へ行くと、立派に志は継承できているが、病院としてエレベーターとトイレットの不足が気になる点であった。今後もコロナ禍の中で、又近隣に強力なライバルができる中で、大阪市民の為の高度医療、急性期医療の中心としての御活躍を祈っている。

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