250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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3回目はチューリッヒ大で脳神経外科のマイクロサージャリーを習得、大学紛争の後半で、居場所のない中で帰国、まず松村浩先生の天理病院へ拾って頂き、1971年、北野病院の院長をしておられた荒木千里先生に拾って頂き、37歳で脳神経外科部長に就任した時である。当時、世界的に脳神経外科にマイクロサージャリーが導入されつつあった時で、北野病院脳神経外科は日本へマイクロサージャリーを発信する基地となり、日本中から若者が脳神経外科に就職したり、留学をしたり、080田附興風会 医学研究所北野病院 第19代理事長(京都大学 名誉教授)北野病院という名前を聞いたのは1945年敗戦の年であった。1928年、大阪の財界人、田附政次郎氏が、大阪にも京都大学の医学、医療の根拠地をと御寄付頂き、大阪市の關一市長、京大総長の荒木寅三郎、医学部長の松本信一先生の御発案で田附興風会北野病院として発足したことは、後で知った。その為理事長、院長に歴代の京大医学部の先生方が就任されていた。戦争中の海軍による接収、空襲被害のもと、敗戦直後の再開院に際し、父・菊池武彦が、病院長を拝命したことがあったからである。当時、臨床教授が2年ずつ交代で院長職を引き継いでいたようである。1945年、敗戦の秋から再開の準備をしている時、進駐軍(前半は米軍、後半はオーストラリア軍)による接収が約5年続き、返却後も残りの日時を父は院長を務めたようである。2度目の御縁は医師になって1年目の後半、故・西村周郎先生(大阪市大名誉教授)が一人で脳神経外科を立ち上げられている時、私達脳外科志望の大学院生4人が1カ月位ずつお手伝いに派遣された。1年目の後半とはいえ、西村先生と1:1の脳外科診療で、色々ご迷惑をおかけしながら、病棟の処置や、脊椎穿刺、アンギオなどは一人でやらねばならず、緊張の連続であったが、得難い経験であった。大学院生2年目も2回目のお手伝いをした。菊池 晴彦北野病院百周年にあたり更なる活躍を期待して

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