250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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新館落成式に出席する当時の理事長 後藤光治(1962年)医師、看護師などの病院職員と協力して患者さんのサポート活動を行う「病院ボランティア」。今では多くの病院で目にする光景だが、当院の病院ボランティアには全国でも有数の長い歴史がある。日本で病院ボランティアが始まったのは1962(昭和37)年。大阪の産科医・広瀬夫佐子氏がアメリカの病院を訪れた際にその存在を知り、帰国後、淀川キリスト教病院で活動を開始した。この取り組みが距離的に近い当院にも伝わったと思われ、3年後の1965年に活動を開始した。広瀬氏が1970年に結成した病院ボランティア連絡会(現・日本病院ボランティア協会)にも、初期会員として名を連ねたと伝わっている。1971年にはボランティアグループが正式に発足し、主としてガーゼ、包帯などの衛生材料作りを担った。1980年の神経内科開設を機に病棟での活動も行うようになり、2002(平成14)年には病院全体へと拡大。院内の案内や機器操作の補助、介助サポート、入院患者の話し相手、行事開催時の手伝いなど、活動内容も次第に広がっていった。ボランティアメンバーの中には、通算活動時間が2,000〜3,000時間にも及ぶベテランも多い。2020(令和2)年の新型コロナウイルス感染症拡大後、院内でのボランティア活動の多くは一時的に休止状態になったが、小児科病棟で使用する点滴衣の作成など、自宅で活動を続けている人もいる。その後、新型コロナウイルスが5類感染症に移行したことなどもあり、2025年春、数年ぶりにボランティアメンバーの募集が再開されることになった。047──ボランティア活動の始まりと変遷1962年、当院は厚生省(現・厚生労働省)より、医学部を卒業したインターン生が実地修練を行う「インターン臨床研修指定病院」の指定を受けた。1968年にインターン制度が廃止され、医師免許取得者に2年以上の臨床研修を促す新制度が創設されると、当院は新たに「臨床研修指定病院」の指定を受け、多くの人材育成に携わることとなった。1970年3月、大阪・千里丘陵で日本万国博覧会(大阪万博)が開幕した。「人類の進歩と調和」をテーマとする会場には100以上のパビリオンが立ち並び、未来の技術や世界の文化に触れようと多くの人々が押し寄せた。ところが開幕間もない同年4月8日、大阪市民を震撼させる出来事があった。現在の北区国分寺町で発生した「天六ガス爆発事故」である。地下鉄谷町線工事現場からのガス漏れが原因で、爆風や火災による死者79人、重軽傷者420人にも及ぶ大惨事となった。負傷者は大阪市内各所の病院に搬送されたが、事故現場に近く救急指定病院でもある当院は、とりわけ多くの重症患者を受け入れ、医師たちは懸命の治療に当たった。そのうちの一人、2日前に脳神経外科に着任したばかりだったという垰本勝司医師は、野戦病院さながらの惨状に衝撃を受けつつも、先輩医師の「冷静な判断と処置の見事さに圧倒された」と後に述懐している。患者・地域・病院をつないで半世紀column

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