046北野病院とその周辺(1958年11月19日撮影)新館完成後の北野病院(1962年)した。皆保険時代を迎え、病床増設医療福祉分野でも、疾病予防や健康増進関連の施策が重視されるようになり、薬事法(1960年)、老人福祉法(1963年)、母子保健法(1965年)などが相次ぎ施行された。1959年には国民健康保険法も1954年12月、関西地域の病院としては初の「人間ドック」も開設された。人間ドックは同年7月に国立東京第一病院(現・国立研究開発法人国立国際医療研究センター)が始めたばかりの新しい試みだったが、富裕層などの高い関心を集め、当院にも受診希望者が殺到した。これを機に「健康友の会」講演会(1952年頃から開催)にも多くの人が集まるようになり、いわゆる北野ファンが形成されていった。そして再開5周年を迎えた1955年、医学研究所機関誌が『北野病院紀要』と改題して再刊された。1944年の休刊以来、11年ぶりのことである。「当院の本質は研究所」という松浦病院長の信念に基づく決断であり、研究発表の場を求める医師たちにとっても待ちに待った復刊だった。1958年には国立国会図書館の「国際交換図書」に指定され、諸外国への情報発信にも一役買うようになった。1950年代後半、日本は「東洋の奇跡」と称される高度経済成長期に突入し、1956(昭和31)年の経済白書で「もはや戦後ではない」と高らかに宣言した。改正され、1961年、誰もが一定の自己負担で必要な医療が受けられる国民皆保険制度が確立した。このような環境変化も手伝って、当院の受診希望者は年々増加し、病床も常に満床の飽和状態となった。また、竣工からすでに20〜30年が経ち、戦災や接収にも見舞われた建物は、「北野病院ではない、きたない病院だ」との冗談がささやかれるほどだった。そこで当院は、本館に隣接する市有地約1,652.89㎡を大阪市から購入し、地上5階・地下2階、建築面積5,213.89㎡の新館を建設することとした。1960年頃から計画に着手し、竣工は1962年4月。少しでも病床を増やすため、手術室は地下に設置された。また新館建設と前後して麻酔科(1961年)、脳神経外科(1962年)を新設したほか、救急室、中央検査室なども整備された。この新館建設によって、当院の病床数は510に増加した。さらに本館の漏水対策と増床を兼ね、バルコニー上部にも木造病舎を増築した結果、1964年には580床となった。救急指定病院として1957(昭和32)年、当院は病床数、診療科、設備などの諸規定を満たす大規模病院であるとして、医療法に基づく「総合病院」の承認を受けた。また、これと同時期に大阪府より、消防法に基づく「救急指定病院」の告示を受けた。
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