250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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第2次世界大戦後、西側資本主義陣営と東側社会主義陣営の対立が深まり、1950(昭和25)年に朝鮮戦争が勃発した。米軍の兵站司令部が置かれた日本は朝鮮特需に沸き、戦後復興の道を歩み始めた。再開当時の北野病院(1950年頃)北野病院紀要第1巻045を強めたが、状況はなかなか好転しなかった。それどころか、当院を大阪市立医科大学(1947年設置。現・大阪公立大学医学部)に吸収する計画まで浮上し、存続すら危ぶまれる事態となってしまった。この計画を撤回させるべく、三浦理事長がGHQ公衆衛生福祉局トップのサムス大佐に直談判したという証言が残っている。マッカーサー元帥の信任厚いサムス大佐は、戦後日本医療への貢献が評価される一方、強引な手法には賛否も多かった人物だが、三浦が「米国では個人の善意による寄付でできた病院を寄附者の意思に反して取り上げることが認められますか」と問うたところ、一言の反論もなく沈黙したと伝えられている。敢然として全館同時再開へ同年11月、当院は5年1カ月にも及んだ接収をようやく解除され、悲願の再開院を果たした。再開にあたっては、外来診療のみ先行させる案、50床程度から順次拡大する案も検討されたが、理事会は閉院前と同じ188床の全面再開を決議した。菊池病院長はこの判断について、「理想論であり、冒険とさえ考えられたが、今日までの北野病院の信用、地域の人々からの復活の希望の声も聞かれることから、敢然として全館同時再開に踏み切ったのです」と述べている。長年の接収で院内は荒れ果て、人員も資金も不足する中での再出発だったが、京大医学部の人的支援、田附家からの財政支援もあって、病院運営は予想外に順調に推移した。患者数の急増に応えるため、再開翌年の1951年には212床へ増床。翌1952年には244床となったほか、新たに歯科診療も開始した(同年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し日本は独立を回復)。さらに1951年の結核予防法施行を受け、当院も結核病床を増床した結果、1954年には再開時の倍近い353床となった。人間ドック開設、『紀要』も復刊再開後間もなく初の専任院長に就任した松浦は、病院運営を本格軌道に乗せるべく、前述の病床増設をはじめ、研究所の再開、放射線室の更新、看護師宿舎の建設など、さまざまな施策を次々と実行1953(昭和28)年6月、終戦直後から足掛け9年にわたって理事長を務め、接収解除・再開院を主導した三浦百重が退任した。第6代理事長には後藤光治病院長(第8代)が就き、代わって第9代病院長には京大元教授の松浦篤実が就任した。それまでの歴代病院長は京大の現役教授が務めてきたが、以後は専任院長制が原則となった。総合病院への飛躍

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