章再開から拡張へ(1945〜1980)044第7代病院長 菊池武彦1945(昭和20)年8月、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した日本は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領統治下に置かれることとなった。東京・大阪をはじめ全国各地に進駐したGHQは、ホテルや病院、商業ビルなど、戦禍を逃れた建物を接収し、施設や宿舎として利用した。団事務所を置き職員を常駐させること、機械器具の保管スペースを確保すること、施設や土地の賃貸料を支払うことなどを認めさせた。こうして同年10月、当院は特別調達庁(進駐軍の調達業務を担った公法人。後の防衛施設庁)との賃貸契約という形式で進駐軍接収施設となった。なお、当院を使用した部隊については、証言者の記憶に若干の齟齬はあるが、当初は米軍を中心とする衛生部隊が駐留し、1946〜1947年頃からは豪・英軍を中心とする報道関係の部隊が使用したようである。戦後改革が進む中で医療分野においても、陸海軍病院が国立病院として一般市民に開放されたほか、戦時対応の意味合いが濃かった国民医療法(1942年公布)は廃止され、1948年、新たに医療法や医師法が施行された。このうち医療法は、医療提供体制の整備を主眼としたもので、病床20床以上を病院、19床以下を診療所とすることなどが定められた。こうして戦後改革が進む中、当院は一日も早い接収解除と診療再開をめざして各所への働きかけ1946(昭和21)年11月、日本国憲法が公布され、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3原則が明示された。政教分離、教育改革、農地解放、財閥解体などの民主化政策も次々と実施に移されていった。GHQ進駐、当院も接収施設に空襲被害は被ったものの焼失を免れた当院も例外ではなく、同年秋、在阪進駐軍から接収に応じるよう要求された。これを拒絶することは不可能と悟った第5代理事長の三浦百重や第7代病院長の菊池武彦(ともに同年10月2日就任)は、少しでも有利な条件を取り付けようと折衝し、地下室に財終戦間もなく進駐軍に接収され、5年間の閉院を余儀なくされた当院は、関係者一同の粘り強い努力の末、ついに悲願の再開院を果たした。そして日本が戦後復興・経済成長へと歩みを進める中、地域医療を担う総合病院として大きく成長していった。悲願の再起33第
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