250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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第5代理事長・第6代病院長 三浦百重1933(昭和8)年に国際連盟を脱退するなど孤立化の道を歩んだ戦前の日本。しかし当然ながら、すべての国際交流が途絶していたわけではない。その貴重な証左であり、当院とも深い関係のある事実が発見された。1936年に親善試合のため来日したニュージーランド大学ラグビーチームが当院を訪れた際、選手たちの身体測定を行い、その結果をまとめた論文が半世紀後に再刊行されていたことが分かったのである。論文の筆頭著者は、初代脳神経科科長を務めた木村潔医学博士。学生時代、自らもラグビー選手として活躍したという木村は、格別の熱意をもって検査に取り組んだようで、全24選手の氏名、年齢、身長、体重、胸囲、心雑音や不整脈の有無、胸部レントゲン結果などの綿密な記録を残している。そのうちの10人については心電図検査の所見も記載した上で、「時間の都合で全員の検査ができなかった」と遺憾の意をにじませている。この論文は、1936年8月発刊の当院『業績報告第二巻』に掲載された。それから51年後の1987年、ニュージーランド代表チーム「オールブラックス」の初来日を記念して、当時92歳だった木村が日本ラグビーフットボール協会に業績報告を届けたことから、論文の存在が明らかになった。これを読み、感銘を受けた同協会医務委員の有志は、論文を再刊行して関係者などに配布した。そしてさらに31年後。ラグビーワールドカップの日本開催を1年後に控えた2018(平成30)年、かつて再版論文に接したある医師が「スポーツ医学研究の先駆け」と医療サイトで紹介した。この情報が巡り巡って当院も知るところとなり、約90年前の出来事を改めて発見した次第である。043──ニュージーランド大学ラグビーチームが当院で身体検査遭った(6月7日の第3回、6月15日の第4回だったという説もあり)。幸い死傷者こそ出なかったものの、焼夷弾による火災で木造の研究室や看護師宿舎は全焼。本館では窓ガラスが割れ、天井に穴が開き、水道管やガス管も大破するなど、目を覆うばかりの惨状となった。入院患者を近くの水道会館へ一時避難させた職員たちは、全員一丸となって応急処置に奔走したが、診療活動の継続が難しいことは誰の目にも明らかだった。やむなく即日閉院した当院は、「海軍共済病院として施設を借り受けたい」という大阪警備府(海軍の後方機関)のかねてからの要請を受け入れる決断を下した。交渉の矢面に立った第6代病院長の三浦百重(1944年3月就任。1945年10月より第5代理事長)は、8月16日を施設引き渡しの日と定め、撤収作業と閉院式挙行の準備を進めた。しかしその前日の8月15日、昭和天皇による『大東亜戦争終結ノ詔書』──いわゆる玉音放送がラジオから流れた。満州事変勃発以来、15年にも及んだ戦争はようやく終結したのである。終戦を受け、施設貸与の話は白紙に戻ったが、三浦病院長は閉院の方針を堅持した。数年前までは順調だった経営が戦況悪化とともに再び危機的状況に陥っていたため、一時閉院して体制を立て直した上で、早期再開を目指す考えだった。職員も残務整理要員3人を残して一旦退職し、再開の連絡を待ったが、一同悲願の再開までは予想外の歳月を要することとなった。90年前の国際交流column

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