250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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042出征する医師や職員を見送る壮行会終戦直後の北野病院(1945年頃)1937年、現在の北京市郊外で発生した軍事衝突(盧溝橋事件)をきっかけに、中国との全面戦争に突入(日中戦争)。政府は戦争遂行のために統制経済を敷き、翌1938年には国家総動員法が施行された。当院が大阪郊外での大規模拡張計画を断念したのも、このような状況下で、建造物新増築への規制が強まったためと伝えられている。1939年、第2次世界大戦勃発。翌1940年、独伊と三国同盟を結んで枢軸国側に立った日本は、米英など連合国との対立を深め、日中戦争も泥沼の様相を呈し始めた。そして1941年12月の真珠湾攻撃によって、日本は太平洋戦争の火蓋を切った。が召集され、軍医として戦地に赴いた。残された医師たちは、人員不足で多忙を極め、京大病院に応援を求めることもしばしばだったようである。1943(昭和18)年頃を境に、太平洋戦争は米英の優勢に逆転。戦況が悪化する中、政府はますます経済統制を強め、あらゆる産業分野がその対象となった。出版界も例外ではなく、多くの刊行物が休刊・廃刊に追い込まれた。当院が1929年以降、毎年欠かさず発刊してきた業績報告も、1944年4月をもって休刊となり、当時編集委員を務めていた木村潔(脳神経科科長)は、次のように再刊への強い思いをつづっている。乞い願わくは大東亜戦争が完遂し、時局の安定によって本報告が従前にも勝る医学研究雑誌として蘇生し得る日の一日も早からんことを祈って休刊の辞といたします空襲受け無念の閉院へ当院も6月1日の第2回大空襲で甚大な被害に1944(昭和19)年末、米軍の爆撃機B29による本土空襲が開始された。日本第二の都市であった大阪は主要な標的とされ、大小合わせて50回以上もの攻撃を受けた。このうち100機以上のB29が襲来した大阪大空襲は、1945年3月から8月まで計8回に及び、焼夷弾によって市内至るところが焼け野原となった。戦争への道当院の運営が軌道に乗り始めた1930年代は、日本が戦争への道を突き進んだ時代でもある。1931(昭和6)年、現在の中国東北部で勃発した満州事変を機に、日本は1932年、満州国建国を宣言。しかし国際社会の批判を受け、翌1933年に国際連盟を脱退した。戦況悪化、『業績報告』も休刊戦争が長期化・激化するにつれ、挙国一致の風潮は年を追うごとに高まり、兵役に服する国民も増加の一途をたどった。当院からも数多くの医師戦時下の苦闘

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