250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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翌1938(昭和13)年4月、後に「中新館(西側)」と呼ばれる西新館が竣工し、病床数は188床と開院時の1.5倍以上に増加した。建物は地上4階・地下1階、建築面積約1,970.24㎡。本館が重厚なドイツ風建築だったのに対し、西新館は外装・内装ともに趣向を凝らしたアメリカ風デザインが採用された。また館内には治療室、看護師詰所、配膳室、炊事室などが設置されたほか、冷暖房設備やエレベーターも完備された。中新館の地鎮祭10周年記念式典041経営診断で赤字解消開院から数年を経ると、当院の診療方針への信頼感も高まり、患者数は着実に増加していった。そこで病院機能拡張のため、本館の北西地に新館を増築することとなり、1934(昭和9)年6月に着工。翌1935年1月に竣工した。その後「中新館(北側)」と通称される新館は、地上3階・地下1階、建築面積約1,216.52㎡。これにより病室8室13床が増床されたほか、手狭だった外来診察室や検査室なども拡張された。同じ頃、当院は神戸商業大学(現・国立大学法人神戸大学)より平井泰太郎(経営学)・原口亮平(会計学)の両教授を顧問に招き、経営・会計の調査と指導を仰いだ。今で言うところの経営コンサルティングであり、当時の日本の病院としては極めて稀有な試みだった。両教授の適切なアドバイスに従い、会計方式や事務機構を見直した当院は、開院以来の赤字を解消することができた。後に日本初の経営学博士となる平井は、当院の経営診断を日本におけるモデルケースにしたいと熱心に取り組み、黒字経営維持のため病床の倍増を提案した。これを受け、当院は時を置かず、さらなる拡張計画に着手。建設地は当初、大阪郊外に広大な敷地を求める案も浮上したが、時局(後述)の影響もあって本館西隣の空地に増築することとなり、1937年8月に着工した。西新館竣工、実りの10年この年、当院は設立から無事10周年を迎え、西新館竣工に先立つ同年3月、記念式典が実施された。併せて1933年4月に他界した田附政次郎の肖像除幕式も挙行され、財団創設以前から親交のあった松本信一(当時第3代理事長)が改めて謝意を示した。なお、父の跡を継いで財団理事に就任した2代目田附政次郎は、故郷・五峰村(現在の東近江市能登川地区)への貢献も強く希望していた亡父の願いを叶えるべく、一周忌を迎えた1934年、財団法人五峰興風会を設立した。その後、保育園や診療所の運営に携わった同財団は、今も地域の社会福祉事業を支援する公益財団法人として活動を続けている。

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