章戦争の時代に(1930〜1945)040当時の北野病院(1934年頃)北野病院の看板(1936年頃)1928(昭和3)年2月、当院は上記のような基本理念の下に診療を開始した。各診療科とも京大の現役教授が顧問に就任し、医師たちはその直接指導を受けながら診療にあたった。こうした京大医学部の全面的支援による診療体制も、当院ならではの特色として高く評価された。とはいえ開院当初の病院運営は、お世辞にも順風満帆とは言い難かった。その原因のひとつは当時の経済状況である。開院翌年に発生した世界恐慌の影響で、日本でも企業倒産が相次ぎ、失業者が増大した(昭和恐慌=1930〜1931年)。また、1934年9月には室戸台風が京阪神を直撃し、死者・行方不明者は3,000人以上に及んだ。とりわけ大阪の被害は甚大で、産業にも深刻な影響を与えた。これらの外部要因に加え、大阪における知名度の低さも課題だった。まずは存在を知ってもらわねばと、病院名をでかでかと掲げた看板も制作されたが、控えめな京都風を重んじる幹部には不評だったと言われている。ともあれ、こうした大宣伝効果もあってか、当院の名は少しずつ地域に浸透していった。理想と現実の間で患者の診察は各方面における考察の総合を基本とし、疾病を取り扱うに最上・最善の策を講ずる。患者に対しては、必ずこの人を幸福に導くべしとの信念をもって接するのが当院診療の要訣である(今村新吉初代理事長「開院の辞」より抜粋要約)最上・最善の策を講じて患者を幸福に導く──。高い理想を掲げ、新天地大阪で産声を上げた当院は、少しずつ地域住民の信頼を勝ち得、経営も軌道に乗り始めた。しかし、間もなく日本は戦時下へ。多くの職員が戦地に赴き、当院も最大の試練の時を迎える。地域への浸透22第
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