250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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翌1929年3月には、研究所機関誌『田附興風会医学研究所北野病院業績報告(Memories of the Kitano Hospital Osaka)』が発行された。臨床医学研究用病院としての独自性発揮と、研究員の意欲向上が目的だった。以来、この業績報告は毎年発刊され、戦時中の一時休刊を経た後『北野病院紀要』として現在も続いている。開院当時の北野病院(1928年)マリ・キュリー博士の署名039北野という名称にちなみ、北斗七星をモチーフにしたと伝えられている。危機的状況を乗り越えて建築工事も軌道に乗り始めた1927(昭和2)年、突如として前途に暗雲が立ち込めた。戦後不況・震災不況による金融不安の中、大蔵大臣の失言によって引き起こされた「昭和金融恐慌」である。全国各地で取り付け騒ぎが勃発し、休業や経営破綻に追い込まれる銀行が相次いだ。田附興風会が財団基本金を預け入れていた近江銀行も同年4月に臨時休業し、翌1928年に経営破綻した。そのあおりを受けて預金は支払い停止となり、病院規模の縮小を検討せざるを得ない危機的状況に陥ってしまった。それでも今村理事長、松本病院長をはじめとする役員たちの献身的な奔走により、財団基本金を一部切り捨てるという最小限の被害で事態を収拾することができた。そして1928年2月29日、当院は予定日をさほど過ぎることなく、無事開院の運びとなった。病床数は120床、診療科は内科、外科、小児科、産婦人科、眼科、耳鼻咽喉科、皮膚泌尿器科、整形外科、物理的治療科、脳神経科の計10科体制でのスタートだった。なお、開院時に設置されていた医療機器などの詳細は不明だが、後年、当院で保管されていた書類の中から貴重な書類が発見された。1926年にパリのラジウム研究所キュリー研究室が当院に発行したガンマ線照射装置の証明書である。書類右下にはノーベル賞受賞者、マリ・キュリー博士の署名も認められる。理想に従い研究する自由の地開院から約1カ月後の1928(昭和3)年3月17日、本館講堂において開院式が挙行された。この中で財団代表として開院の辞を述べた今村理事長は、中世都市ジェノバの老首領が初めて領外の世界を見た時の感慨になぞらえ、「田附政次郎氏の義侠芳志によってわれわれはこの結構な学館を得、所属官衙(かんが・官庁)の藩籬(はんり・垣根)を出で、因習や成規の羈束(きそく・拘束)を脱して、理想に従い研究する自由を得ました(原文を一部平易な表記に修正)」と喜びを語った。その言葉どおり、当院は開院当初から自由闊達な研究活動に取り組んでいる。同年6月に初開催された学術講演会は、同年だけで計5回、いずれも京大医学部の現役教授を招聘して実施された。

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