250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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038地鎮祭階段講堂前に府立医科大学附属病院が開院しており、鴨川を挟んで近接する両院が患者を分け合うかたちとなっていた。臨床医学研究用病院として成果を上げるためには、より豊富な資料を得やすい「大大阪」は願ってもない舞台だったのである。病院名の由来は旧地名こうして財団創立翌年の1926(大正15)年9月、大阪市北区西扇町3・北扇町70(いずれも現・北区扇町)計約3,428.09㎡における病院建設が始まった。病院名は当初「嘉恵(かけい)」とする案もあったが、「平易が望ましい」との政次郎の希望を尊重し、關市長の発案で「北野病院」となった。建設地が元々、北野村という地名だったことに由来している。建築設計は武田五一(京大工学部教授。「関西近代建築の父」と称される建築家)の推薦で、森田慶一助教授が担当した。森田は設計にあたって海外の事例を多く学び、モダンで重厚なドイツ流の病院を参考にした。建物は本館=地上4階・地下1階、別館=地上2階・地下1階で、建築面積約7,107.43㎡。本館中央には中庭を配し、採光と通気に配慮したレイアウトだった。また耐震性も十分考慮されており、後の1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の際にも被害は軽微だった。なお、当院の院章(シンボルマーク)も森田がデザインした複数案の中から選ばれたものである。病院建設の地は「大大阪」田附興風会の定款には、財団創立の目的を達成するために「臨床医学研究用病院を設置し、臨床情報に基づく総合医学研究を行う」と明記されている。これこそ財団創立者たちの願いであり、100年後の現在も変わらない当院の使命である。病院の建設地は、大阪市当局から熱心な誘致があったこと、寄附者の政次郎も「大阪市民に最新医学の恩恵を与えたい」と希望したことなどから、大阪市内に決定した。江戸時代は「天下の台所」として、明治以降は殖産興業の一大中心地として栄えた大阪は、関東大震災で東京が壊滅的な被害を受けたこともあり、1925(大正14)年には人口・面積ともに日本一の大都市となった。後に「大大阪時代」と称される繁栄の絶頂期にあったが、急速な発展に伴う公衆衛生上の課題も多く、対策が急務となっていた。こうした事情もあって市当局は病院誘致に積極的で、北区にある市所有の遊休地を貸与してくれることになった。また当時の大阪市長であった 關■■一■■■は財団評議員就任を快諾し、京大関係者以外で初の評議員となった。大阪市内での病院建設は、京大病院にとっても朗報だった。前述のとおり、京大病院は1899(明治32)年に診療を開始したが、京都ではその約30年恐慌最中の船出

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