250703_北野病院100年史_並製本_単ページ
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初代病院長 松本信一今日の医療制度を支える日本の公的病院には、幕末から明治期に誕生したものが多い。戊辰戦争による傷病者の治療にあたった戦時病院(後の陸海軍病院)や、各藩がこぞって設置した藩立病院(後の府立・県立病院)などである。医師の育成についても、明治初期は主に府県立病院併設の医学校が担ったが、明治中期以降は官立(国立)の医学校に比重が置かれるようになった。こうした中、1897(明治30)年に国内第二の帝国大学として京都帝国大学が創設され、2年後の1899年、医科大学(現・医学部)と附属医院が開設。内科・外科の2科で診療を開始した後、順次診療科を増やした。戦後は1949(昭和24)年、新制京都大学が発足し、京都大学医学部附属病院に改称して再出発。以来、日本を代表する大学病院として発展を続け、現在では30以上の診療科を有している。2024(令和6)年12月には開設125周年を迎え、国内有数の中核病院として高度先進医療と高度急性期医療を担っている。037研究助成のため財団創立へ京大病院での治療を機に医療者への感謝の念を抱いた政次郎は、担当医師などとの親交を深め、研究出張費の援助などを行うようになった。医師たちも政次郎の厚意に報いるべく便宜を図り、田附夫人が急病に伏せった際には療養先の有馬(兵庫県)まで往診した。残念ながら治療のかいなく夫人は他界したものの、京大病院に対してさらに報恩の思いを強めた政次郎は、夫人の死から2カ月後の1925(大正14)年9月15日、京大医学部に寄付金50万円(約3億3,700万円 ※2024年の物価指数で換算)を提供した。「医学に関する総合研究を行い、もって学術、科学技術、文化の振興・発展に寄与することを目的とする」財団創立のためであった。同年10月10日、文部・内務両大臣の認可を受け、11月4日、財団法人田附興風会医学研究所(以後、田附興風会、財団などと略記)が創立された。財団名は京大総長で、財団の初代評議員にも就任した荒木寅三郎が命名した。初代理事長には京大医学部教授で、精神医学教室創設者の今村新吉が就任した。また初代病院長には同じく医学部教授(皮膚科医)で、政次郎とも親交があった松本信一が就くこととなった。開設125年、国内有数の中核病院──京都大学医学部附属病院のあゆみcolumn

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