100田附興風会 医学研究所北野病院 元看護部長1957年、京大病院から総婦長として赴任した故・石脇清子氏は先ず看護の質向上のため看護部職員財団法人創立100周年おめでとうございます、1925年の創立以来、幾多の困難を乗り越えて晴れて100周年を迎えられたことを本当に嬉しく思う。100年と云う長い歴史の中でこの病院で勤務した数多くの職員にとっても大きな誇りであり喜びであると思う。私は1967年4月に助産婦として産婦人科病棟、新館1階に配属された。当時は年間約1,000件の分娩数で介助に追われる日々であった。多忙ではあったが生命誕生の場面に立ち会う仕事は充実して楽しかったことを懐かしく思い出す。母子のケアを充実すべく妊婦教育や母乳育児推進に努力した。その後、看護部教育担当などいろいろ経験させていただいた。旧病院の建物は本館、中新館(一時進駐軍接収)、新館、西館と増改築を重ねてきた歴史がある。1950年再開院時は病床数188床、看護婦25人、1962年新館開設時510床、看護職員170人、1981年西館開設時病床数741床、看護職員は400人を超える大所帯となり大阪を代表する急性期総合病院として発展した。の教育研修、看護師確保、労務管理などを手掛けて看護部に新しい風を吹き込んだ。つまり、患者中心の看護とは何か、各自で考え行動する。自立した看護職として人間として成長できるような教育を目指し具現化した。看護学校を持たない北野病院で看護職員の確保は長年にわたり苦労が絶えなかったが現任教育の充実や臨床実習病院として整備することで人材確保が比較的楽になった。故・石脇元看護部長が残した看護の精神は後輩にしっかりと受け継がれてきた。私は教育担当師長を経て1994年4月に看護部長を拝命した。当時の看護部長の主な仕事は日々進歩する最新の医療を提供するために不可欠な現任教育看護職員の確保、看護部の体制作り、新病院建築と安全な移転と病院機能評価受審の整備などであった。1989年老朽化した病院の建て替えが緊急の課題で経営が困難な状況の中、如何にして近代的な新病院建築を成し遂げるか検討が続いた。新病院建築プロジェクトの一員として看護の立場で設計の準備段階からオーダリングシステムの設計やICU・CCU・NICU開設に伴う最新の設備、新旧医堀 信子100周年に寄せて
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